道の駅しもつけは下野市の良さを伝えるふれあいの場として誕生しました。下野市の農畜産物を使用した美味しさと、地元産特産品、地元農産品の販売に加えて、レストラン、石窯パン工房、菓子コーナーも充実しています。また、お菓子教室や地域のコミュ二ティ施設としての利用もできます。
ホームページ:
http://www.kanpi-shimotsuke.co.jp/
しもつけ市の歴史は古く、古代の政治・文化の中心でした。雅な天平文化の歴史的建造物など見どころ満載です。また、コンパクトな街なので日帰りでも街並み散策を十分に楽しめます。
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観光施設
株式会社道の駅しもつけが管理運営し、一年中泳ぐことのできる温水プールや日帰り入浴・レストラン・リラクゼーション施設・貸出施設等がある複合施設です。子供からお年寄りまで幅広い年代の方々にお楽しみいただけます。
ふれあい館の向かい側に平成30年3月グランドオープンいたします。
一部施設(オートキャンプ場・ドックラン)の営業を開始しておりますので、ご利用下さい。
「天平乃湯」は、一定の温泉成分を含んでいる温泉の素(入浴剤)を使用した人工温泉で、温浴効果を高め、疲労回復、冷え性等の効能が得られます。内湯は、10人以上が入浴できる大浴槽やジャグジー、サウナ、水風呂があり、ご利用の皆様から大変好評を得ています。
また、男湯と女湯には、それぞれ露天風呂をご用意しております。
なお、大浴槽と露天風呂の温泉の素は6種類を使用し、2週間毎に交換しておりますので、様々な湯質を身近にお楽しみいただけます。
県道栃木二宮線の姿川に架かる宮前橋の北側で姿川西岸に南北に長い公園です。
公園中央にある築山からの展望は360度見渡すことができます。築山から北方には男体山、東方には筑波山、西方には大平山、南方には運が良ければ遠く霊峰富士山が望めますし、姿川のせせらぎが聞こえます。
また、有料施設の研修棟とオートキャンプ場があります。
南河内地区
歴史の町南河内。当時、薬師寺が建立され仏教そして文化の中心としておおいに栄えた古代の南河内の姿をいまだ変わることなく伝え続けています。
現在は、昭和47年自治医科大学が開学、医学の道が脈々と流れており、それにともなう学園緑住都市グリーンタウンしもつけや新4号国道沿いの工業団地、農業の近代化でますます発展し、恵まれた土地と自然環境を生かし、質の高い農産物を生産しています。
7世紀後半、白鳳期の創建とつたえられ、奈良時代には奈良東大寺、筑紫観世音寺とともに日本三戒壇の一つが設置され、東国仏教文化の中心地として栄えていました。足利尊氏によって「安国寺」と改名された寺の境内、竹林の奥、戒壇院跡と考えられている場所には江戸時代末期に建てられた「六角堂」があります。
銘文によると、元久元年(1204)佐伯伴行が妻とともに両親の菩提を弔うために造立した供養塔で、県内に現存する紀年銘を持つ宝塔としては最古であり、関東地方でも代表すべきものの一つです。
「県指定有形文化財」(総高約1.8m)
別処山古墳は、全長35m、横穴式石室をもつ6世紀後半に築造された前方後円墳です。昭和60年調査を行った時点で古墳はすでに破壊を受けていましたが、調査終了後、築造された当初の姿に修理復元しました。石室から副葬品として出土した「銀装太刀」と「三鈴鏡」はいずれも全国的に他に類例のほとんどない貴重なもので、町の有形文化財に指定されています。
龍興寺境内、道鏡塚のすぐ隣りに立地してそびえ、濃緑の葉を茂らせた雄大な様は、周囲の景観に落ちついた雰囲気を与えています。
「とちぎの名木百選」(樹高約20.5m 目通周囲約3.6m 推定樹齢約500年)
絹板の百観音堂に安置されている観音像は、いずれも江戸時代末期に制作されたもので、西国・秩父・板東の霊場百か所の観音をそれぞれ模刻したものと言われており、中尊十一面観音像を中心に、両側に50体ずつの観音像が配されています。昔から安産・子育て・家内安全など、地域のひとびとの守護仏として厚い信仰をあつめてきました。御開帳は毎年8月9日です。
「町指定有形文化財」
道鏡は奈良時代の僧侶で、孝謙天皇の信任を得て僧侶としてはじめて大臣禅師にさらに法王という位にまで上りましたが、道鏡を高位につけようとした神託事件の結果、寳亀元年(770)下野薬師寺別当職として左遷され、2年後にこの地で不遇の生涯をとじたとされ、龍興寺本堂北側に残る古墳が道鏡の墓と言いつたえられています。
「町指定史跡」
鑑真は西暦688年唐で生まれ、いく度という苦難の末渡来、日本に戒律をつたえた名僧です。天平寳字5年(761)に日本三戒壇の一つを下野薬師寺に設置しました。龍興寺の墓地内には鑑真の弟子たちが師の遺徳を偲び建立したといわれている供養塔があります。右碑の表面中央には「鑑真大和尚」、左側の面に「天平寶字七壬寅五月五日」と刻まれています。石碑の傍には鑑真がついていた杖が根を生やし大きくなったと言いつたえられる「菩提樹」があります。
「町指定史跡」(総高約2m)
貞観17年(875年)清和天皇の御勅定に依り下野仮夷國の坂上旭ヶ丘(現在地)に東北守護の大神として又下野国薬師寺(日本三戒壇)の守護神として創建されました。拝領した神領地はは、550町歩を誇り、神主1名、称宜5名と社家11、下社家23、神戸55戸を賜るとありますのでかなり壮大な御社であった事が偲ばれます。時に天喜4年(1056年)、源頼義公奥賊平定の勅を拝し出向の際、当社に参宮祈願をなし進発したが、源公の後続軍と賊軍とが当社郷において合戦、御社殿、回廊、御餞殿、御酒殿、神主等全く灰塵に帰した。その後、源頼義公、源義家公(八幡太郎)が奥賊安部一族を平定し帰路奉賛、鉄号三張、矢六本を奉納した。(現在は社宝)
下野薬師寺跡の南西に隣接して建設された下野薬師寺跡のガイダンス施設です。館内では、発掘調査によって見つかった瓦をはじめとする出土遺物、下野薬師寺に関る文献史料、復元模型などの展示のほか、映像などによって下野薬師寺の歴史をわかりやすく解説しています。
国分寺地区
国分寺地区は、今から千二百余年前の奈良時代下野国分寺が建立されたところです。この地に国分寺がつくられたのは、数多くの古墳の存在などからも明らかなように、当地方が古代下野の中心地として栄えていたからで、今に残る数々の史跡・遺跡が、美しい自然と相まって豊かな歴史的景観を描き出しています。
遺跡が集中している国分寺地区の西部には、『天平の丘公園』が整備され年間を通じて訪れる人が絶えません。とりわけ八重桜の匂う「天平の花まつり」の頃(4月中旬~5月上旬)は大変な賑わいとなります。
天平の丘は、美しい自然林と貴重な史跡が調和された面積11ヘクタールの「自然公園」です。
木立の中を小川が流れ、園内には造成中に発見された古銭をまつる銭石や万葉植物などがあります。隣接する尼寺公園や、しもつけ風土記の丘とともに古代下野国の風情を偲ばせます。
JR小金井駅・西口を出ると国道4号線にぶつかり、右折して少し行きます。
この一里塚は、日本橋から22里の地に築かれました。普通、一里塚は、道を挟んで両側につくられたので、道幅が広がると取り壊されて、現在残るものは極めて少ないですが、この一里塚の場合は新道がわきを通ったため、保存につながったのであろうと言われています。
以前は、方形をしていたとも言われていますが、付近が畑地であったため削られたと言われています。
「宿村大概帳」によると、当時は西側に杉が、東側には松があったと記されています。現在は、西側にはエノキ、東側にはコナラがあります。左右の塚とも直径2.7mほどあります。現在では、全国的にも非常に貴重なものとなっています。
慈眼寺は、京都醍醐無量寿院の末寺で、本尊は勢至(せいし)。
1196年(建久7年)新田義兼の開基とされ、新田一族の祈願所として建立、代々同氏に保護されてきた古刹です。
応永年間(1394年~1428年)には、醍醐寺の俊海僧正を迎えて中興第1世とし、これにより醍醐寺の直末となっています。
江戸時代、日光に東照宮が祀られると、将軍家の日光参社の休憩所となっており、かつての休憩所の遺構がみられるほか多数の寺宝があります。
-資料:栃木県の歴史散歩-
蓮行寺は日蓮正宗の寺院で山号は珠栄山(しゅえいざん)です。1360年(正平15年)に建立されました。1823年(文政6年)に火災で焼失しましたが再建されました。
寺院の歴史等に関しては資料が存在しないため不明ですが、寺院の裏側にある池には親鸞が邪悪な大蛇を追い払ったという伝説があり、その功績を讃える石碑もあります。
地名の由来となった下野国分寺跡や同尼寺跡といったマイナーな史跡がしっかり保存され、県立しもつけ風土記ケ丘資料館に出土品が常時展示されているなど、地域の歴史愛好家の注目の地域となっています。
国分尼寺の建立は、奈良時代の天平13(741)年、聖武天皇が国家の平安を祈願し、国分寺建立の詔(みことのり)を発したことにはじまります。国分尼寺は国分寺と同様に国ごとに建てられた官立の寺院で、妙法蓮華経(みょうほうれんげきょう)を根本の教典とし、10人の尼が置かれていました。下野国分尼寺の伽藍跡は、昭和39年以来4回の発掘調査を行って、その大部分が確認されました。伽藍地の規模は、柵列(さくれつ)や築地(ついじ)跡の一部が検出されたことにより、東西145.4m、南北167mに及ぶものであったと推定されています。主要な建物の配置は、奈良東大寺の様式を基本とし、南大門、中門、金堂、講堂が南北一直線上に並びますが、国分寺においてみられる塔は、尼寺には存在しません。伽藍の中心で、本尊を安置した金堂は、間口7間、奥行4間の大きな建物で、床は石貼りになっており、瓦葺(かわらぶ)き、丹塗(にぬり)の荘厳(そうごん)なたたずまいを見せていたことが想像されます。
昭和40年4月9日 国指定
愛宕塚古墳は、二段に築成された前方後円墳で、前方部を西南西にむけています。墳丘の推定の全長は約78m、後円部直径約52m、高さは前方部、後円部ともに約5mですが、周溝を含めると100mをこえる規模となります。また、墳丘一段目に幅広い平坦面(基壇)をもちます。埋葬施設は、前方部のくびれ部寄りに存在します。未調査のため詳細は不明ですが、凝灰岩の切石を使用した横穴式石室と考えられます。墳丘には埴輪が伴わず、須恵器が出土しています。この古墳は埴輪を伴わないことなどから6世紀末~7世紀初め頃に築造されたと考えられます。
丸塚古墳(まるづかこふん)は県内でも有数の大型円墳で、古墳時代終末期の7世紀ごろに築造されたものと考えられます。墳丘は、ゆるく傾斜する基壇の上にのり、墳頂は直径約13mの平坦な面になっています。この古墳の埋葬施設は、切石積横穴式石室(きりいしづみよこあなしきせきしつ)というもので、墳丘の南面に開口しています。遺体を納めた玄室の各壁は、凝灰岩の大きな一枚石で構築されています。また、玄門は、この一枚石の中心をくりぬいて造られており、優れた石材の加工技術がうかがえます。なお石室は古くから開放されていたため、副葬品等については明らかではありません。
昭和53年6月2日 県指定
しもつけ風土記の丘とその周辺には、古墳や寺院、国府跡など、栃木県の古代文化発祥にかかわる数多くの史跡が残されています。資料館では、古墳時代から奈良・平安時代に作られたこれらの史跡について、古代の政治と民衆の生活、中央の地方の関わり、土木・建築技術の発達など、いくつかの側面から取りあげて紹介しています。
この建物は名前の表すとおり、幕末から明治に移る頃の建築で、平成7年に現在の天平の丘公園内に移築されました。囲炉裏があり昔の情緒が感じられ、古い民具や農具を展示しています。現在、民俗資料館「夜明け前」は古民家カフェに改修工事中のため、平成30年3月(予定)まで公開を中止しています。
愛宕塚古墳の北側、丸塚古墳の西側に位置する古墳で、周堀外縁長が100m以上の前方後円墳です。愛宕塚古墳とほぼ同時期の6世紀末~7世紀初め頃の古墳と考えられています。
平成16年度の発掘調査で、馬形埴輪(うまがたはにわ)や人物などの埴輪が約20体出土したほか、土器が大量に出土しました。これらのことから、今から約1400年前の6世紀後半に造られたと考えられます。 下野市の歴史に興味を持ってもらおうと、下野市国分寺庁舎1階ロビーに甲塚古墳から出土した馬型埴輪1(愛称 こうちゃん)を展示しています。また、馬形埴輪2(愛称 甲くん)については、しもつけ風土記の丘資料館で展示中です。